優等生放火殺人

200平米の家。両親が医師という裕福さ。小学校時代から抜群の成績。
そんな高校生が何故自分の家に放火するのか?
自分では大問題だと思っていることが他人から見れば他愛のない瑣末な事というケースが他にも沢山あるのでないだろうか?
自殺は止めよう、自暴自棄になるのはやめよう。もっと楽観的に、楽しく生きようではないか。

大本営発表!

今朝のNHKの朝のニュースは「日本逆転負け」だった。言わずと知れたW杯対ブラジル戦の結果である。
日本時間で早朝の4時にキックオフとなったこの試合、僕も前の日に早めに就寝して観戦した。奇跡を味わいたかったからである。
しかし、やはり力の差は歴然。いいようにあしらわれた、というのが実感だった。日本チームがボールを持ったときブラジルは悠然と自陣で攻めを待つ。攻め込めない日本チームはバックパスを多用してボールを回すのが精一杯。いざ攻めこもうとすると、アッと言う間にボールを奪われてしまう。前半34分に1点を先制できたのが奇跡と言えば言えた。
その結果のニュースが「逆転負け」だ。太平洋戦争中の局地戦では「敗戦」は「転進」と呼ばれた。今「惨敗」を「逆転負け」と言うのか?
あの試合、もし逆に日本チームが4対1で勝っていたとしたら、どう表現されるだろう。「逆転勝ち」か?いや決してそんなことはない。明かに「快勝」というだろう。ならば逆に負けた立場なら「惨敗」と表現するのが妥当ではないか?
読売新聞は「完敗」として、ピッチに呆然と残る中田英の写真を載せていた。

ド素人が舵を取る日本経済

数週間前自分自身を「プロ中のプロ」と評した投資家がいた。その人に私財を預けた人物は自分自身を投資に関して「ド素人」と表した。
「プロ中のプロ」は塀の中に落ちそうになっている。一方で「ド素人」は日本経済の舵を手放そうとしない。
日本経済!大丈夫なのか!?

ジーコバッシングをやめろ!

オーストラリアに負けた。惨敗だ。
しかし、だからと言ってジーコの悪口を言うのは止めようではないか。
NHKではアナウンサーと解説のサッカー選手の間でこんな会話があった。
アナ「ジーコ監督の選手起用をどう思いますか?」
解説「小野の投入は攻めのためなのか、守りのためなのか僕にも判断できませんでしたね。」
アナ「○○さん(解説者)でも分からないようなら、選手は当然わからなかったでしょうね。」
同じアナはドイツ現地にいる別のアナウンサーとこんな会話もした。
日本のアナ「坪井選手の脚の具合はどうですか?」
ドイツのアナ「単につっただけだから今度の試合は大丈夫でしょう。そもそもシュート練習のし過ぎで脚がつりやすい状態になっているようです。練習メニューも手順を考えてやらないといけませんよね。」
馬鹿野郎!てめぇはジーコより立派な練習メニューが考えられるとでも言うのかよ!!
一度負けたからと言ってジーコを攻めるな!
あと2戦を見守ろう。少なくとも今回のW杯はジーコに日本の命運を任せたのだから。

善意の仮面

弁護士が自分の依頼人の秘密をマスコミの前でベラベラ喋っている。どこかおかしくないか?
その様子を報道するテレビ局のキャスターは「真実を皆の前で明かにして欲しいですね」と弁護士の暴挙を歓迎するコメントを発している。どこかおかしくないか?
弁護士に依頼人守秘義務を守れと言うのはおかしい事なのか?
日本全国どこかおかしくないか。
容疑者は罪を犯したのかもしれない。しかし真っ当な裁判を受ける権利はあるはずだ。裁判を前に自分にとって不利なことを全て公開に晒されると分かったら、次ぎから弁護士を信用しなくなり、弁護士に対して真実を語らなくなるかも知れない。それは逆に大きな社会的損失ではないか。
容疑者の行動が公衆に対して開示されるのは裁判の席まで待つべきだ。そこまで待つことに対して社会的損失があることは考えられない。
自分がさも正義の味方であるかのごとく記者会見に応じる弁護士二人が善意の仮面をかぶった悪魔に見えた。
似たような場面を朝の通勤電車の中で見た。
いつもより少し遅い電車に乗ったせいで混雑はラッシュのピークに比べれば大分少なかったがそれでもかなりの人が立っていた。僕の斜め前には如何にもオバタリアンという風情の女性が坐っている。
その女性がある駅で席を立った。その前に立っていた少し若い女性は待ってましたとばかり体を席に向けようとするが、前に坐っていた女性がそれを拒む動作をする。その女性は遠くにいるおばあさんに「ホラ、こちらへ」とばかり手招きし、前に立っていた女性を押しのけておばあさんを座らせた。
オバタリアンは自分の善意に満足そうに駅に降りていった。
ちょっと待てよ。自分の席を譲ったのならその善意を認めよう。そうじゃないだろう。自分が降りることになって時点でその席に坐る権利は前に立っていた女性のものになったのじゃないのか?次ぎに誰が座るかということまで自分で支配しようというのか?
ここにも善意の仮面をかぶった悪魔がいた。

何故か燃えないトリノオリンピック

トリノオリンピックが開幕してテレビのどのチャンネルもオリンピック一色。でも僕は何故かしらけている。
開幕式はいつも見ない。今回もニュースで一部を見ただけだったが、その一部がしらけた。オノ・ヨーコが老醜をさらけ出していたから。白い服はいいが、下着で体を締め付けない方がいい。下着からはみ出た肉体の弛みが目立つ後姿は無残だった。
スノーボードハーフパイプもしらける。数人で争われる決勝は前の選手がどんどん失敗するので後から演技する選手は安全第一でやればいいのではないか。演技の順序があれほど不公平な競技はない。
ペアのフィギュアスケートでは失敗して脚をいため棄権しようとした中国ペアがなんとか滑って銀をとってしまった。確かに試合を諦めなかった精神力は驚嘆に値するし心から賞賛したい。でも、でも。銅メダル以下の選手は怪我をした選手程の演技すら出来なかった、という事かね。あまりに淋しいじゃあないか。
そもそも冬のオリンピックは何故この選手が1番なのか分からない競技が多すぎる。主観的要素が多すぎると言う事だ。その点アルペンの滑降だけが一つの清涼剤だった。